橘三喜と氷川女體神社

 氷川女體神社は、江戸時代前期の神道家・橘三喜(たちばな みつよし)が、諸国一宮巡りを始める起点となった神社である。

 橘三喜は、1635年、肥前国平戸の平戸七郎宮(現亀岡神社)の祠官(しかん、神官のこと)の子として生まれ、13歳のときに、第四代平戸藩主の松浦鎮信から神道を学ぶように命じられたというので俊才だったのだろう。府中国浅間神社の門人となり、神道を受け、その後、江戸の浅草に移って「弓矢神道」を広めている。

 弓矢神道は、鎌を神体として、安産や巡行などの行事を勧める。その門人の一人が氷川女體神社の神主の武笠豊雄であった。この縁で、1657年、橘三喜は、浅草の平戸藩邸を出発し、一宮巡りを始め、最初に立ち寄ったのが氷川女體神社であった。その後、23年をかけて、全国一宮を巡行している。

 橘三喜の墓は、氷川女體神社近くの武笠家墓地に残っており、墓碑には「一樹霊神」と刻まれている。今度、見に行ってみましょう。

氷川女體神社(武蔵国一宮)一宮③

2019年8月19日(月)

 前日に続いて参拝したのが、さいたま市緑区の見沼田んぼに位置する氷川女體神社。御祭神は、須佐男の妻の奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)で、氷川神社を男体社とし、氷川女體神社を女体社とする。

 奇稲田姫は、八岐大蛇の生贄になるところを、須佐男に救われ、櫛に姿を変えられた。須佐男は、その櫛を挿して八岐大蛇を退治したのだが、櫛は、ポパイでいうところのほうれん草のような役割を果たしたらしい。

 その後、二人は結ばれ、その子孫の一人が大己貴命(おおなむちのみこと)で、日本を創った大国主命の別称。氷川神社と氷川女體神社の中間にある中山神社の御祭神で、この三社は、見沼三社と呼ばれ、直線上に並んでいる。太陽は、夏至に氷川神社に沈み、冬至に氷川女體神社から昇るのだという。

氷川神社(武蔵国一宮)一宮②

2019年8月18日(日)

 佐渡の渡津神社の次に御朱印を頂いた神社が、近隣の大宮にある氷川神社だった。氷川神社の総本社で、御祭神は須佐之男命など。存在が定かではない欠史八代の孝昭天皇の時代の創建といわれ、紀元前5世紀頃になる。

 氷川神社は、出雲大社から分祀したとしているが、斐伊神社(島根県雲南市)によると、当社から分祠したと記録されている。いずれにしろ、現在地にやってきた出雲族の影響があったようで、見沼の水辺に位置していたことから、出雲の斐伊川に因んで氷川と呼ばれたといわれる。

 その斐伊川は、八岐大蛇の伝説がある川で、大蛇を退治したのが、須佐之男命で、氷川神社の御祭神。

 はるか昔に、今の島根県の出雲から遥々、埼玉県の大宮クンダリまでやってきた人達がいたかと思うと感慨深い。

福が逆さま

 中華料理店などで、逆さまになった「福」という字が貼られているのを良く見る。そういうときの3回に一度くらいネットで調べているのだが、何故か毎回すぐに理由を忘れてしまう。何か縁起の良い理由があるのは分かっているのだが。いつか永遠に忘れてしまうんだろうな。

 という訳で、今回は逆さ福の理由を書き留めておくことにする。春節の際に、家で福と書かれた赤い紙を逆さに貼ることを「倒福」という。「倒」の拼音(ピンイン)がdaoで、「到」と発音が同じため、福が到るということで、福を逆さにするのだという。

 これを何故覚えられないか考えてみると、中国語の素養が皆無だからだと思う。拼音は中国語の発音記号のことで、ラテン文字化して表記している。正確には、daoのaの上に声調符号の「く」を左側に90度倒したようなキャロン(caron )というマークがつく。因みに声調符号の横線はマクロン(macron)というらしい。同級生の少女の母親と結婚したフランス大統領と同じ名前なんだな。

 「倒福」はdao daoと発音され、「福が到る」こと。覚えました。

鄭成功のこと

 台湾では、鄭成功、孫文そして蒋介石が、三人の国神だという。孫文(中華圏では、なぜか日本語名を入れた孫中山)は、中華民国の初代臨時大統領で、蒋介石(台湾では蒋中正)は、台湾の初代総統と、何となく知っているのだが、鄭成功のことは、台南市の鄭成功祖廟を訪れて説明を聞くまで知らなかった。しかも、母親が日本人で平戸生まれだという。

 鄭成功の父・鄭芝龍は、明朝末期の貿易商または海賊で、平戸藩松浦氏の保護を受けていたという。平戸で、田川マツという女性との間に生まれたのが、鄭成功。7歳の時に福建に移り、明の科挙制度に合格したが、1644年、明が滅んでしまう。

 鄭芝龍は、明の初代皇帝朱元璋(洪武帝)の血を引く朱聿鍵(隆武帝)を擁立した。隆武帝は、眉目秀麗な鄭成功に、君主の姓である「朱」を与えたが、鄭成功は畏れ多いとして使用することはなかったという。ただ、後の台湾での鄭政権の樹立の箔付けにはなったのではないか。

 隆武帝は北伐に失敗して殺され、鄭芝龍は清に降伏するが、鄭成功は、明復活のための抵抗運動を続けた。やがて南京で大敗して、台湾へ渡り、1661年、台湾を統治していたオランダ人を追い出して、鄭政権を樹立した。しかし、同年、熱病にかかり病死してしまう。

 1663年、息子の鄭経が台南に鄭成功祖廟を創立した。1683年、鄭政権は清に滅ぼされ、22年の短い幕を閉じた。

 日本の江戸時代初期頃、日本人の血を引く鄭成功が、中国大陸や台湾で活躍して、台湾の国神になっていたとは驚きだった。

 

日月潭の文武廟へ

2026年3月22日(日)

 前日、浜松町の京急EXインに宿泊して、羽田空港からの早朝のChina Airline(中華航空)で台北松山空港へ。羽田空港からのフライトが早い時に、最近、よく宿泊しているので覚えておきましょう。

 因みに、台湾のFlag CarrierがChina Airlineで、中国のがAir China(中国国際航空)。

 松山空港から高速自動車道で日月潭へ向かったのだが、台湾の高速は、ほとんどが高架式で建設されている。ネットによると、建設コストが安いからと書いてある。

 日月潭は、台湾中部の綺麗な湖で、そのほとりの高台に孔子や関羽を祀る文武廟がある。大きな狛犬が目印だが、実は狛犬ではなく「石獅」と呼ばれる獅子だった。

 寝ぼけながら聞いていたガイドさんの説明で、文武廟にあった孔子像は、日本の堤さんが持ち帰って、現在は狭山神社にあるというようなことを聞いた気がして、なら、近くじゃないかと思って調べてみると、話はそんなに簡単じゃなかった。 

 思いっきり簡単にまとめると、1900年の義和団の乱の時に、日本軍が北京の孔子廟から孔子像を持ち出して、それが転売されて西武の堤康次郎氏の手に渡り、所沢市のユネスコ村に置かれて、1979年、それを複製したものが文武廟に設置された。

 ユネスコ村は、1990年に閉園し、孔子像は、現在、狭山不動の康信寺に祀られている。このあたりの話は「とんちゃん日記」のblogが思いっきり詳しい。

 

雪の茅舎

 3月18日(水)

 秋田県由利本荘市石脇の斎彌酒造店に行ってきた。

 石脇は、江戸時代、亀田藩の物流拠点として、子吉川を下って集められた米や木材を北前船に乗せて江戸や大阪に送っていた。

 斎彌酒造店は、1902年(明治35)、斎藤彌太郎氏によって創業された。酒蔵は「のぼり蔵」と呼ばれ、坂の上から精米、仕込、貯蔵と坂を降りてくる造りとなっている。 

 かつては「由利正宗」が代表銘柄で、坂下の事務所の前面にも表示されているが、現在は「雪の茅舎」が有名で、2014〜15年にはANA国際線のファーストクラスで提供されていた。航空会社の知人によると、大変名誉なことらしい。さすが、最強のサイヤを名乗る酒蔵である。